私がまだ四国の田舎の高校生で、広島の大学を受験すると言ったとき、母が話してくれた。戦争中、挺身隊にいた十五歳の頃、友だちに、広島に働きに行こう、と誘われた。父親に反対されて行けなかったが、「もし行っていたら、ピカで死んでたかもしれん」。私が進学して広島で暮らしはじめてまもなく、母は脳腫瘍で倒れ、秋に死んだ。
大学の先輩に誘われて、韓国人女性被爆者の被爆体験の聞き書きに携わったのは、その翌年だったと思う。取材する先の人たちを「お母さん」と呼んだ。なぜそう呼びはじめたかわからないが、そう呼ぶとき、私は死んだ母から聞きそびれた話を、聞かせてもらう気がした。もしかしたら、母もこの土地で被爆していたかもしれないのだった。
五人のお母さんたちに取材した。テープの書き起こしも含めたら七、八人になるだろうか。まず必ず言われた。「思い出したくない。話したくない。あんたらに話してもどうせわからん」。それを、懲りずに何度も通った。最初は二人か三人で、その後はたいていひとりで訪ねた。話しても、決して理解してもらえない苦しみを、しかも同胞にでもなく被爆者にでもなく、まるで何にも理解できそうもない、日本人の小娘の私に話せという。それは幾重にもお母さんたちの心を傷つけることだ、そんなことをなぜ私がしていいのだろう。葛藤しながらも、通いつづけた。
何度か訪ねて行くと、ある日突然、堰を切ったように話してくださるのだったが、その内容は怖ろしかった。それをたんたんと聞き続けた私は、たぶん、人間よりもテープレコーダーに近かった。もしかしたら、人生経験もなく想像力もなく、なんにもわからないからこそ聞き取ることができたかもしれない、と今にして思う。書き起こしてまとめた原稿は、一冊の証言集として本になり、やがて絶版になったけれど、いま読み返して泣きます。あんなにつらい話を、何度でも平然と聞いた、二十歳の自分の神経が信じられない。たしかに私はテープレコーダーだったのだ。
日本に侵略されて、田畑を失って、朝鮮で暮らせなくなって日本に来た。親に連れられて、夫のあとを追って、娘たちは海を渡った。慰安婦として連れて行かれないように、急いで見知らぬ人と結婚させられたり、騙されて遊郭に売られてきた娘もいた。そして広島で、工場や日本人の畑で働いていた。小さい子どもたちの世話に追われていた。臨月の体を抱えていた。そしてあの朝、原爆に遭った。
被爆のつらさも生活の苦しさ差別のくやしさも、語れないほどだ、と言った。無学で字が書けないが、もし字が書けて書いたら、それはこの家いっぱいになる。それは誰が読んでも泣くでしょう。最初、話したくない、と言ったお母さんたちがこう言った。「正しい歴史を残してちょうだい」。
戦後、日本が戦争に負けたから、朝鮮人は殺される、という噂が飛び交い、河口から小さな漁船に乗り合わせて帰っていった。九月十月、台風で沈んだ船もあった。「原爆で焼かれて何もない、向こうに帰っても何もない」帰れない人も多かった。一つの家族でも、帰った人、帰らなかった人、のちに共和国に帰った人、家族が別々の国で生きることになった運命に(多くの人々が生涯再び会えなかった運命に)この国は深く責任がある。
なのに、私たちが、そういったことを何も知らない、在日朝鮮人がなぜ存在するのかさえ知らない、その無知はほとんど犯罪的だ。その犯罪的な土壌の上に、今度の高校無償化の朝鮮学校除外の問題もあるのに違いない。
お母さんたち、市の失業対策事業で働いている人が多かった。昔は原爆で壊れた道を、働きづめに働いてなおした。ある日、土手の草刈りの現場に取材に行ったとき、自分の話が終わると私のことを聞いてくれた。母が死んでいること、自活していることを言うと「これでジュースでも飲みんさい」と千円札を出してくれた。もったいなくて使えない、と思ったが、そのうち風呂代か何かになった。
お母さんたちから被爆体験を聞いた頃から四半世紀も過ぎた。原爆を生きのびたのに、病弱や差別に将来を悲観した息子が自殺した。「悔しさは言えん」とお母さんが言った、その悔しさのかけらも理解できなかった二十歳の自分の鈍さを許せない気持ちだが、あの日々、取材を終えて、最後に心に残ったのは、原爆の悲惨よりも差別のむごさよりも、それ以上に、にも関わらず生き抜いていく人間の根源の強さのようなものだった、と思う。その強さに心の深くを励まされていた。
お母さんたちが生き抜いたことに励まされて、私も生き抜いてこれた。人が生きることは、ただそれだけで、他の人が生きることを励ましている、気づかなくても生きるとはそういうことだと、信じさせてくれたお母さんたちに、もうほとんど亡くなってしまわれたけれど、深く深く、感謝しています。
「無人島」三号(平成22年8月)掲載
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